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百年の店、百年の言葉

天兵

親父のお客さんが仕込んでくれたようなものです

2012年1月11日
天兵

井上孝雄◎1951年生まれ。神田生まれの神田育ち。大学で近代日本文学を学んだ後、父親が開業した「天兵」に入る。

天ぷらはすでに江戸時代には人気料理になっていた。一般庶民は菜種油や綿実油、ごま油で揚げた天ぷらを好んで食べていたが、大名は榧(カヤ)の実を搾った貴重な油で揚げた天ぷらに舌鼓を打っていた。カヤの実の油で揚げた天ぷらとほかの油で揚げた天ぷらの差は、シルクと木綿の違い以上である。とにかく軽い。いくら食べても胃にもたれない。香りがフルーティである。

この高価なカヤの実の油にこだわる江戸前天ぷらの老舗「天兵」は淡路町交差点(東京・千代田区)にある。

料理人の井上孝雄は2代目だ。父親の兵次は笈を負って佐賀県から上京した。たまたま食べた江戸前の天丼に感激して、天ぷら店「天米」の小僧になった。「天米」で修行したあと、才能と運に恵まれて、昭和15年、今の場所に独立して店を構えた。

天丼の命とも言われる丼つゆは、兵次が開店の日、喜び勇んで仕込んだものに注ぎ足しながら現在に至る。同じ寸胴鍋のなかで雨にも負けず風にも負けず、70年間静かに天兵を守ってきた。この丼つゆはまさに天兵の命である。いつも小さな火で暖められている。煮立っても黒ずみ冷めても黒ずむ。

「うちのカヤの実の油を作る人は宮崎にいたんですが、高齢でやめると言ってきたんです。困ったと思っていたら、運良く明治大学の同級生の紹介で、高知で大きな山持ちでカヤの油を絞ってもいいという人を知ったんです。本当に助かりました」と井上孝雄は誇らしく語る。孝雄も父の兵次に似て強運の人である。

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