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決断のとき・大戸屋社長 三森久実 編

2008年3月25日

大戸屋 代表取締役社長
三森 久実(みつもり ひさみ)

1957年山梨県生まれ。15歳で東京・池袋に「大戸屋食堂」を経営する伯父の養子となる。養父の死に伴い、79年に店を継承。83年店舗展開を目指し、株式会社大戸屋設立。2001年株式店頭公開。05年バンコクに海外1号店を出店。2008年1月末現在、国内の「大戸屋ごはん処」205店舗(うちFC77店)、タイ12店舗、台湾6店舗。

文=芦部 洋子
写真=山田 慎二

月商3000万円の定食屋
先代の遺志に背いて継ぐ決意
「恩返しがしたかった」

「大戸屋の創業者である先代は、亡くなる前に僕に遺言を残したんです」。大戸屋社長、三森久実は、敬愛する養父の末期の言葉を、ひと呼吸置いて口にした。「自分が死んだら、一旦、僕の実父に店を経営してもらえ、と。当時、僕はまだ21歳の若造だったから、店を切り盛りできるかどうか心配だったんでしょうね。まず、自分の弟に店を託し、その下で僕に経験を積ませ、経営者としての基礎ができてから引き継がせるのが安全だと思ったんじゃないですか?」。

だが、遺言のことは誰にも話さず、自分でその店をやろうと決めた。「これが、最初の大きな決断でしたね」。

山梨県から上京した先代が、1958年に東京・池袋に開いた「大戸屋食堂」は、“全品50円均一”という画期的な価格設定が呼び物の人気店だった。先代が亡くなった79年にはその価格こそ変わっていたが、1・2階の計48坪で1日の来店客は1000人以上。月商3000万円、経常利益1000万円という大繁盛店だった。

「伯父には子供がなかったので、僕は幼い頃から伯父さんの養子になるんだよ、と言い聞かされて育ったんです。伯父は、僕をずいぶん可愛がってくれました」。野球少年だった三森に、バットが1ダース送られてきたこともあった。三森は、裸一貫から繁盛店を作り上げた伯父を尊敬していた。

三森の実父は山梨県で観光ブドウ園を経営しており、池袋の定食屋の店主を兼ねるには無理があった。「養子になって数年で亡くなってしまったから、養父には何もしてあげられなかった。だから、僕が店を継いで、大きくする。それが僕にできる恩返しだ。そう決心したんです」。

高校卒業後、レストランに就職して飲食業のノウハウを学んでいた三森は、先代の病を機に「大戸屋食堂」に入り、約1年現場を経験していた。「店を継いだ時、20人程いた従業員は全員僕より年上。20歳そこそこの僕は人を使うのも初めてだから、苦労もしました」。スポーツ新聞に出した求人広告を見てバッグ1個で地方から出て来た人、家出してきた女の子......。いろいろな従業員がいた。時には、店のお金をくすねた従業員のことを調べたら、指名手配犯だったということもあった。従業員の問題は尽きなかったが、売り上げの方は順調だった。

「食券制で前会計だから1フロアにスタッフが3人。無駄がなく、人件費が低くてすむ、非常に効率的なシステムだから儲かったんです。僕が継いだ当時は客単価400円ぐらいで来店客数は1日2000人。2~3年経ったら7000万~8000万円の貯金が自然にできていました」。

これを元手に、東京・高田馬場に2号店を出した。「26歳のときです。初めて自分で出した店でした。2年後に東京・吉祥寺に3号店を出店。両方とも池袋と同じコンセプトの定食屋です。3店で年商5億になりました」。80年代は東京の不動産が高騰した時期で、高田馬場店は保証金込みで7000万円、吉祥寺店は1億7000万円も出店費用がかかったが、店は繁盛し、経営状態は良好だった。

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